座標: 南緯27度9分36.73秒 西経70度29分48.4秒 / 南緯27.1602028度 西経70.496778度 / -27.1602028; -70.496778 コピアポ鉱山落盤事故(コピアポこうざんらくばんじこ)は、チリ共和国アタカマ州コピアポ近郊のサンホセ鉱山(en:San José Mine)にて、現地時間2010年8月5日に発生した坑道の崩落事故である。崩落により33名の男性鉱山作業員が閉じ込められるも、事故から69日後の現地時間10月13日に全員が救出された。サン・ホセ鉱山 (el yacimiento San Joséまたはla mina San José) は、コピアポの45km北に位置する。鉱山を所有したのはミネラサンエステバン社[1][2]であったが、のちに倒産した[3]。
作業員達が閉じ込められたのは地下634mの坑道内で、これは坑道の入り口から5kmの位置である。鉱山会社の弁護士を含む数名が、作業員らが救出された後、鉱山所有者らが破産に追い込まれる可能性を指摘している[4][5]。サンホセ鉱山は金と銅の産出で1889年から操業してきた[6]。現在[いつ?]の所有者は、マルセロ・ケメニー・ヒューラー(40%)とアレハンドロ・ボーン(60%)の二人である[7]。
[編集] 事故の経緯
[編集] 事故の背景
チリは鉱業国として長い歴史を持つ(2010年は銅生産世界シェア35%程とリチウム生産量世界一)[8]。しかし一方で採掘現場の安全確保は立ち遅れ、2000年から年平均で34人が採掘中の事故により亡くなっている。2008年には43人の命が失われ[9]、2009年に19万1685件の事故が発生して443人が死亡、2010年の第1四半期だけでも155人が死亡している[10]。
コピアポ鉱山の坑道は螺旋状に1本道で地下深くに伸びており、迂回路や退避路は設けられていなかった[要出典]。コピアポ鉱山でも2004年と2007年に各1名の死亡事故を含む複数の事故が起こっており[4]、政府は2010年7月から、鉱山所有会社らに坑道の強化に失敗している旨の警告を発していた。1995年に鉱山労働組合は、コピアポ鉱山の閉鎖を要求し、話は裁判所にも持ちだされた。2005~2007年にかけて労働監督局は閉山を決定したものの、なんらの改善措置も行政監督もなく、2009年操業の再開が認められた。今回の事故の原因となった強度の不足も、事故が起きる前の段階で予測が可能だった物を、早期に鉱山閉鎖をしなかった理由について論争を引き起こしている。全国地質・鉱山事業局(Sernageomin)の果たした役割が疑われ、Sernageominの17人の監督官による責任のなすりあいが行われる一方で、鉱山経営者との間に利益提供があったことが疑われている。アタカマ州には2000から3000の鉱山があるが、担当する監督官はわ� ��か2名であった[11]。
[編集] 事故の発生
8月5日作業員は2つのグループに分かれて作業をしていた。まず地下460メートル地点で落盤事故が発生した。落盤による大量の土砂は、作業員の3メートル手前まで押し寄せた。事故発生当時、坑道出口付近で作業していたグループは速やかに脱出したが、坑道奥で作業していた33名は坑内に閉じ込められた[12]。事故に遭遇した労働者は皆男性で、32名のチリ人と1名のボリビア人であった[1][13]。閉じ込められた作業員は通気孔からの脱出を模索したが、通気孔にはステップが無く脱出は不可能であった。その後、8月8日にも地下510mの地点でも落盤があり、坑道は闇に包まれた。鉱山のオーナーは、事故発生後9日間行方をくらまし、8月13日にやっと人々の前に姿をあらわし「私たちにとって最も重要な事は、労働者とその家族だ」と述べたが、逆に被害者家族より非難を受けた。[要出典]
- 事故後18日目の生存確認
- 生存は絶望視されていたが、救助隊は確認のために地下700mにある避難所まで直径8センチのドリルで穴を掘った。22日にドリルを引き上げたところ、先端に赤い文字で「我々33名は待避所で無事である」旨をスペイン語で手書きされた紙が括りつけられているのを発見、坑内に閉じ込められた33名が地下700mの避難所で生存していることが確認され[12]、さらにはこの中にはある従業員による妻宛に自分が元気であることを伝えるラブレターなども含まれていた。そして救助隊が直径10センチとなった穴にファイバースコープを挿し込むと地下の鉱員の顔が映し出された。翌23日には音声での通話に成功している[14]。
- 救出活動を現地で見守っていたチリ大統領セバスティアン・ピニェラはこの生存確認を受けて、現地に集まっていた鉱夫の家族たちに対して拡声器で生存確認を報告、現地は歓声に包まれ[12]、首都サンティアゴでもラッパが吹かれるなど歓喜の渦に包まれ[15]、チリ各地で広場に集まったり、車のクラクションを鳴らしたりして生存を祝った[16]。
- 地下での被災状況
- 避難所には通風口が繋がっていたため、彼らは生存していたが、食料や水はわずかにしかなく[# 1]、1日おきに1人当たり小さじ2杯分の缶詰のマグロ・牛乳1口・ビスケット1枚を分配してしのいでいた[17]。彼らが発見された時の備蓄食料は、あと2日分しか残っていなかった[14]。保健相によると作業員は、1人あたり平均で体重が10kg落ちた[18]。避難所の広さは約50平方メートルだが、長さ約1.8キロの坑道に通じており、地下620mの作業場(ワークショップ)や坑道最深部まで自由に歩き回ることができ、排泄物も場所を決めて坑道奥に廃棄していた。33人は坑道内のトラックのバッテリーを使ってヘッドライトを充電し、光源にしていた。
[編集] 耐久生活
鉱夫たちは50平方メートルほどのシェルターにいたが、通気性に問題があったため、坑道に移らざるをえなかった[19][20]。シェルターのほか、動きまわるスペースのある2キロメートルほどの地下通路があったのである[21]。鉱夫たちはバックホーを使って地下水を確保している[22]。鉱山シャフトの内側にある搬送機のラジエーターからもある程度水を得ることができた[21]。食料は限られていたため、一人あたり8キログラムほど体重を落としている[20]。緊急時にと残されていた食料はわずか2、3日分であり、彼らはそれを分け合って、発見されるまでの2週間をやりくりしたのだ[23]。彼らが口にしていたのは「48時間ごとにマグロの缶詰を小ぶりのスプーンに2杯、牛乳を一口、ビスケットを1枚」、桃の一切れであった[21][22]。明かりにはトラックのバッテリーを使ってヘルメットのランプを灯している[20]。
退院後のマリオ・セプルベダの言葉によれば33人は「一人一票制の民主主義を採用していた。脱出口を探したり、士気を高めようと皆で頑張った」。またこうも言っている。「もし関係が破綻したら、みんなお仕舞いってことは誰もがわかってた。毎日別の人間が何かしら不始末をやらかしたけど、そういうときはいつでも、みんながチームとして士気を維持しようとしていた」。セプルベダはじめ古参の鉱夫は若い人間をよく助けたが、鉱山内で起こったことの詳細、特に絶望的だった最初の何週かに起こったことについては口を閉ざすよう皆で誓った、と彼は言った[24]。そういった出来事の中には、仲間が死亡した場合にその肉を食べることも真剣に検討したことも含まれていた。
アバロスもまた、地下で生き残るため空腹に打ち勝とうと力をあわせた。「まとまりになれば、頑張りとおせる。希望をもっていられる。生き残るとみんなが信じなければいけなかった」と語っている。かつてプロのサッカー選手だったフランクリン・ロボスは自分たちが素晴らしいサッカーチームであるかのように行動したという。「酷いことが起きたけど協力しあった。何もなかった、水が飲みたくても飲み物なんてどこにもなかった時も。僕らは協力しあったんだ。食べるものもなくて、スプーン一杯のツナ缶を口にしたぐらいだった時も。それで本当に結束することができた」[25]。
[編集] 主要人物
- ルイス・アルベルト・ウルスア (54)
- 鉱山の現場監督だった。事態が容易ならざるものであること、救出が難しいことを理解し、「避難所」と彼らが呼んだ安全地帯に鉱夫たちを移動させた。わずかな物資を長期間もたせるために皆のまとめ役となった[26][27]。事故の直後には3人を選抜して坑道を探索させ、状況を確認した。周辺の情報を細かくまとめた地図は救出を容易なものにした。救出作戦においては、地下の側から地上のエンジニアとテレビ会議で密に連絡をとっている[28][29]。ピーター・ドラッカーの愛読者でもある。[30]
- フロレンシオ・アバロス (31)
- 地下ではサブリーダーになり、ウルスアを支えた。それまでの経験と丈夫な肉体、精神力を買われて、脱出用カプセルへ乗った最初の人間に選ばれていた。もともとはシャイな人間であり、鉱夫の家族へ送るビデオを撮る際は撮影係にまわった。彼の弟も閉じ込められている[29]。
- ジョニ・バリオス (50)
- 医師役をつとめて全員の健康状態を確認し、必要ならワクチンを与えたり、地上の医療班に仔細な報告をした。仲間たちはアメリカのテレビドラマにちなんで、彼を「ドクターハウス」と冗談めかして呼んでいた[31][27][29] 。
- マリオ・ゴメス (63)
- 一番の年長者であり、宗教面でのリーダーとなった。聖像をかかげて礼拝所をもうけ、地上の精神科医のカウンセリングをたすけている[27][29]。
- ホセ・エンリケス (54)
- 33年間採掘にたずさわりながら同時に牧師(福音派)でもあった[32]。鉱夫たちの司祭となり日々の祈祷をおこなった[29]。
- マリオ・セプルベダ (40)
- 精力的に鉱山内の状況をビデオにおさめて地上に送り、世界中に彼らが首尾よくやっていることを伝えた。地元メディアは彼をテレビゲームにちなんで「スーパーマリオ」とあだ名していた[29][33][34]。
[編集] 作業員の健康
8月23日、鉱夫たちと音声での交信が可能となった。健康上の問題はほとんどないことが報告された。「地下700mに閉じ込められ、高温多湿ななかで18日間も過ごしたわりには想定していたほど彼らは不調をきたしていない」と救助隊の医師はメディアに語っており、また5%ブドウ糖液と過度の空腹による胃潰瘍を抑える薬が彼らのもとに届いていることも伝えた[35]。物資は伝書鳩の役割にちなんでpalomas(鳩)と名づけられた1.5mの青いプラスチックのカプセルによって一時間かけて搬送された[19][36]。エンジニア達はボーリング穴をゲルで覆い、シャフトを補強するとともにカプセルが通過しやすくした[37]。高濃度のブドウ糖液や補水液、薬品などのほか、鉱夫たちが空気不足を伝えると酸素も送られるようになった[36]。固形食も数日してから運ばれている[36][38]。ボーリング穴は他にも二つ開けられた。一つが酸素を送るためで、もう一つが鉱夫の家族とビデオチャット用の装置を通すためにつかわれた[38]。親族は手紙を書くことも許可されていたが、前向きな内容にするように要求された[19]。
鉱夫の士気を案じて、救助隊は検討されている計画では救出に数か月かかるかもしれないことを鉱夫たちに伝えることをためらった。
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